はいまわる理科

午前中に聴いた理科教育学の修論で取り上げられていた,理科教育史に関する語に興味を引かれたので挙げておこう。戦後から昭和33年頃まで,戦後復興期の理科教育に対する批判の言葉である。当時の理科教育のキーワードは「生活化」「体験化」であったようで,おそらく戦前は教室で教科書を読むことが中心だった教育を,実地体験を伴うものに変えようとするのが狙いだったように思われる。しかし,当時は十分な訓練を受けた教師自体が多くなく,結局,学ぶべき何の体系もないまま課題は子供に丸投げされ,いつまでも同じレベルをぐるぐると「はいまわって」いることが批判の対象となった。詳しくは以下のHPなどをご覧になるとよいと思う。
http://www.pref.nara.jp/kyoikuk/kondankai/kondan3.htm
学校理科では,このあと体系的な学習が奨励されたが,その次に出てきたのは実生活と理科の乖離であり,多くの子供が理科を「必要ない」勉強と思ってしまったのである。それで今ではまた反動で生活との関連重視傾向が強まっている。
不勉強にして古今の理科教育論を見渡すことは私にはできないが,この問題は,生物学では今日でも生きていると思う。自戒をこめて書くが,もちろん仮にも生物学を本業とする人間であれば,自分の研究を位置づける体系を知らないわけがない。しかし,幸か不幸か生物は対象があまりにも多様なため,何かをやればほとんどの場合新知見が出てくることは確実である(出てこないとしたらよほど基礎知識がない)。体系はなくても論文は書けるのである。はいまわる生物学者だって論文数だけはいっぱし誇れるのだ。
勿論,記載的な研究はダメなどといっているのではない(そんなこと言ったら私は自殺だ)。唯以て他山の石(自山の石かも)とすべし。