最近の「評価基準明示化」流行りで、ウチの学科でも今年から卒論にいくつかの審査基準を設け、合否だけでなく点数評価するようになった。それはさておき、卒論とは如何にあるべきかということは、いつでもどこの大学でも、収束することのない議論だろう。
よく比較対象にされるのは、卒論を学生の自主性に任せる人と、教員の研究の一部を分担させる人である。私も、今までに両方の立場をしてみたことがある。結論から言うと、教員に十分な研究の力量があり、かつ「学生のため」という信念があるのなら、どちらでもよいと思う。理想を言えば、学生の資質に合わせて両者の使い分けができるのがベストだろう(そこまで学生を見る目のある人なら、の話)。学生自身の自立的な研究態度を伸ばすことを卒論の最大の目的とす考える人なら前者の立場をとるだろうが、これはおそらく、相当に教育力のある教員しかできないだろう。当然、学生の思いついた研究テーマなどたいしたことのない場合が多いし、方法論もなかなか適切なものにたどり着かないかもしれないし、いくら努力しても卒論自体が失敗に終わってしまうリスクが常にある。しかし、ここで「頑張りは認めましょう」で合格させてしまっては、サイエンスを教える学部として失格である。駄目なものは駄目と教えなければならない。従って、この立場の指導教員には、失敗への覚悟、即ち卒論発表会で他の教員から酷評されることと、その後始末への覚悟が要求される。もし、学生本人が自分の研究のどこが悪かったかを反省し、問題点を見つけ出すことができれば、その教育的意義は非常に大きなものになるだろう。しかし、失敗へのアフターフォローがなければ、この立場は単なる指導放棄に堕する。
一方、教員の研究の一部を分担させることについては、私はあながち反対ではない。「理屈はまだよくわからないけど、最先端の研究の一部を担ってみたい」という学生の好奇心もよく理解できるし、最初はちんぷんかんぷんでも1年間取り組むうちに全体像が少しずつ見えてきて、真におもしろさがわかってくるかもしれない。何より、こういう態度の方が、教員と学生の両者にとってはるかに楽ちんだし、科学への貢献も大きくなるだろう。ただし、教員側の研究力量が低いときは最悪の結果になる。学生は、自分の研究内容の妥当性を自分で吟味せず、「先生の言ったとおりにしていれば大丈夫」と思わされ、しかもその結果、妙ちくりんなことを教え込まれて世の中へ出ていくことになるのである。
ま、繰り返しになるけど、研究能力があってかつ学生本位に考えることのできる人なら、結局どっちでもいい。ただ、自分の研究室の学生以外の研究発表に無関心なのはどちらにしてもいただけない。