継続は美なり

講義の準備のための資料読みの1日。
ある町の川に関する資料を読む。その町は山間部の農村なのだが,地域振興の点ではかなり成功していて,他の町村からも参考のため視察に来ることがかなりあるという,所謂「元気な農村」と言われている所だ。現在は観光にも力を入れ始めたらしい。
私もその町には行ってみたことがある。地元の方々が地域振興にとても努力しておられるのはよくわかるのだが,私の第一印象は「農村にしてはパサついた町」だった。曰く言い難いのだが,私が田舎をぶらぶら歩くときに期待する,家や土や木がなじんでしっとりした落ち着きがあまり感じられない。観光設備がいかに整備されようと,肝心の「農村らしさ」が,何となく乾いているのだ。
その理由は何なのかと想像してみると,多分,その村はここ2,30年で作物の種類などが大きく変貌しており(水田から換金作物中心に変わった),昔ながらの田畑というのが比較的少ないことが理由の一つかと思われる。多分に私個人の趣味の問題であろうが,私は,何十年と手入れされ続けてきた小さな山田の畔や,毎年の作業のためにきれいに掃き清められた中庭や,まだ使っているのかしらと訝しくなるような沢の洗い場みたいな,現代の作業効率から言えば無駄に決まっているものが丹念に手入れされているのを見るのが好きだ。
もちろん,このこと自体は,所詮は農村問題など我が身の問題ではない他所者の物好きに過ぎない。でも,どうも「まっさらな環境」より「時間の経った環境」に落ち着きや美的なものを感じるのは人間の性質の一部じゃないか,という気もする(妄想だけれど)。経済的には(少なくとも現在において)価値のないものでも,それが維持されているというだけで気持ちが潤うということがあるのかもしれない。里山や水田の保全があれほど多くの人を駆り立てるのもその辺りに一部の理由がないだろうか。
で,「時間の経った環境が好き」という心理が本当に人間にあるとしとしたら,その理由は?