環境への貢献ということ

今日はM1の研究の中間発表。発表の内容そのもののことはさておき、教員側の質疑応答の中でやや気になる発言がいくつかあったので、それについて少々呟いてみる。
もとより、ウチの学科の教員の中でも、「環境問題とは何か」という見解はそれぞれ違う。中には、「自分で研究をするようになったらおしまい」と公言する教員さえいる。おそらく、この教員にとっては、社会的に問題視されている環境問題を解決することこそが環境科学であって、研究とは「社会の要請に応じて」行うのが当然であり、自分で研究のネタを探さねばならないような奴は駄目、ということなのだろう。このように、技術屋に徹するという立場もわからないではないが、私は、これは環境科学としてはもっとも狭いカテゴリーに属すると思う。
環境科学はもちろん応用科学で、医学や農学と同じように人間の福利に貢献するのが目的である。ただ、新しい科学である環境科学は、医学などと違って目的が必ずしも万人にとって明白ではない。もちろん、人間の健康や経済に良い影響をもたらすものが可だというのが単純な理解だが、それだけではなかろう。例えば琵琶湖は重要な水ガメであることは紛れもない事実だが、もし琵琶湖ぐらいの貯水量と水質をもつ貯水池が一つ作れたら、琵琶湖は必要ないのだろうか。そうではあるまい。
私の授業の中でもっとも学生に受けのよい話題の一つが、琵琶湖の在来コイの話である。琵琶湖のありふれた魚が実は「学術的に貴重な系統だった」ということに、ほとんどの学生は目を見張り、琵琶湖の中にはまだたくさんの謎が含まれていることに驚く。
しかし、学術的に貴重な系統は、何も人間にとって益になるというわけではない。それどころか、在来コイはコイヘルペスの感染に弱い。もし、生態系の安定とか漁業の発展ということに最大の価値を置くのであれば、こんなコイは琵琶湖から追放してしまって、病気に強い系統のコイを放流した方がよい、ということになるだろう。世間の大多数の人は学術にはあまり深い関わりはないから、こういう選択をするだろうか?私の感覚では、そうは思えないのである。むしろ、コストをかけてもその貴重な系統を守ろうとするだろうし、その貴重な魚の生息する湖に、更なる愛着と誇りを感じるのではあるまいか。在来コイは純粋に研究者の学術的な興味から発見されたもので、生物学の成果であるが、その成果は琵琶湖の価値を改めてアピールするに十分なものである。私は、これは立派に環境への貢献であろうと思う。研究者自らが環境に新しい価値を発見し、新たな保全や修復の目標を提出することがなく、社会からの要請によって行われるだけの環境科学では、おそらく環境科学の到達目標は貧相なものとなっていくであろう。人間の生活要求に従うだけなら、望ましい環境というものは画一的にならざるを得ない。
というようなことを、M1の発表を聞きながらぼけっと考えていた。